憧 憬 の 轍
2021年9月12日 20年
あの日私は出張先の仙台にいた。
夜、ホテルの部屋でテレビを観ていた。
テレビのリモコンをベッドに放り、
トイレから戻るとそれまで見ていた番組とは全く関係のない映像が映し出されていた。
リモコンをベッドに放った拍子にチャンネルが変わってしまったのだと思った。
確か午後10時頃だったと記憶している。
映画の1シーンのような映像にしばらく見入っていたが、
それが現実に起こっている事だと知るまでに長い時間はかからなかった。
私はそれから朝方までテレビに釘付けだった。
様々な情報が錯綜する中、
ワシントンD.Cにいる妹に何度も電話をかけたが繋がる事は無かった。
電話かがダメならメールなら、
と思い仕事用に持っていたコンピューターから送信したが返信は無かった。
翌朝、私は予定よりも早くホテルを出た。
行先が仙台防衛施設局(現在の東北防衛局)だったからだ。
予想通り局内は騒然としていた。
そしてそそくさと仕事を済ませ私は帰途に就いた。
日本の米軍基地もテロの標的になる可能性が囁かれていたばかりでなく、
いわゆる基地経済に依存している街の様相が変わってしまうかも知れない予感の中で基地の状態を確認したかった。
ワシントンD.Cの妹と連絡がとれたのは数日後の事だった。
当時、NTTコミュニケーションズのOCNでメールのやりとりをしていたがメールが届くことは無かった。
後日、米国で多く使われているプロバイダーに登録し通信手段を得た。
OCNでメールが届かなかったのは米国中のメールサーバーがセキュリティレベルを上げた事によるものだったらしい。
ワシントンD.Cのホワイトハウスか連邦議会議事堂を標的にしていたと言われる飛行機はペンシルベニア州の草原に墜落したためワシントンD.Cに被害は無かったが、
搭乗者に生存者はいなかった。
またニューヨークでは世界貿易センタービルに突入した2機の飛行機によって南棟が、
さらに約30分後に北棟も崩壊した。
その瞬間を映し出すテレビの前で戦争が始まる事を予感した。
あの日から20年の月日が流れた。
とても20年前の事とは思えないくらい鮮明に覚えているのはあの夜、
朝方まで見ていた映像があまりにも衝撃的なものだったからだ。
この20年の間に多くの事が検証された。
2001年9月11日。
当日だけで約3,000人が犠牲となったこの事件は世界中に計り知れない衝撃を与え、
その後の国際社会の流れを変える分岐点になったと思う。
私の暮らす街の空を今日も戦闘機が飛んでいる。
かつてよく見かけたF4ファントムやF1やF16も今やF35に替わった。
基地の様相に外見上の大きな変化は見られない。
毎日繰り返し行われる訓練が実践で役立つ事は分かっていても、
その訓練が有事を想定したものだと思うと「国防」と言う二文字の意味を考えてしまう。
かつて柳ジョージ&レイニーウッドが歌った「FENCEの向こうのアメリカ」。
彼らが見て来たFENCEの向こうのアメリカと私が見て来たFENCEの向こうの景色は同じものではない。
ただそこがFENCEに囲まれた場所だと言う事は今も昔も変わっていない。