憧 憬 の 轍


憧 憬 の 轍


20161023 疑問と憶測でしかない答え



この2週間、ほとんどバイクに触っていない。


KSR80PhoenixProjectどころか


初期型XL125さえも作業場で シビレを切らしている有り様だ。


そうは言っても何もしていない訳ではない。


10年ほど動かしていない除雪機の再始動や、


オイルポンプがイカレたチェーンソーの修理や


耕運機のキャブレターのオーバーホールなど。


それなりに地味な活動をする中、


南の果ての島から来てくれた友人に付き合って


毎晩アルコール消毒を繰り返した結果、


昨日から声がおかしい。


認めたくはないが、もう若くないな・・・。



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このチェーンソーはチェーンオイルが出ないって・・・         チェーンオイルのパイプが裂けている!

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ついにクローラーにまで手を付けることになった           このキャブレター、時々オーバーフローが激しい

 

1015日の事だが、

県立美術館で開催されている企画展「澤田教一:故郷と戦場」へ。

10代の頃、報道カメラマンに憧れていた。


報道写真に興味を持つようになって久しいが、


年齢と共に考えるようになったのは『報道とは何か』と言う事。


その過程で澤田の写真が他の戦場の写真と何かが違うような気がしていた。

 

言うまでも無く戦争の最大の犠牲者は民間人だ。


銃を手に前線で倒れた兵士たちも犠牲者であることに違いはないが、


戦う術すら持たない人々はただ逃げ惑うしかない。


写真は語る。そして見るものに問う。

戦況の悪化と共に凄惨を極める日々に、

明らかに恐怖と絶望が見て取れる兵士の表情。

たった一発の銃弾で命を失う現場にいる者たちが考えるのは、

生きてそこから帰ることだけだ。

そのためには敵を殺すしかない。

それらは戦場において実に当たり前のことで、

勝敗がもたらす戦後の国家間の関係なんて誰も考えていない。

兵士にとって“敵”は自分に銃を向けるから敵なのか。

あるいは誰かが指示したから“敵”なのか。

いづれにしても“敵”を殲滅しなければそこから生きて帰れない。
 

澤田がその名を世界的に知られる事になった


「邦題=安全への逃避」が撮られたベトナム戦争は本来、


抗仏戦争を経て分断された南北ベトナムの内戦、


いわゆる第一次インドシナ戦争だった。


アメリカが軍事介入して以来、


資本主義と共産(社会)主義の争いは泥沼の様相を深める。


その過程や背景はあまりにも複雑だ。

 

澤田はUPI香港支局を経て1970年にサイゴン支局へ戻る。


ラオス、タイ、さらにカンボジアを精力的に取材した。


時代は確実に、そして予期せぬ方向へ動き出していた。


「死神に見放された男」と呼ばれた澤田だったが、

同年10月、プノンペン近郊で取材中を襲われ、

銃撃によって帰らぬ人となった。

撮影機材の多くは持ち去られたままだ。

 

報道カメラマンを志してから死に至るまでの澤田の人生と、


キューバ革命に立ち上がったチェ・ゲバラの人生が


どこか似ているように思うのは私だけだろうか。


澤田もゲバラもある種の“麻痺”を抱えていたのかもしれない。


それは戦場と言うあまりにも平穏な


日常からかけ離れた時間が生み出すもの。


恐怖と絶望に支配されていた兵士の顔が


時間の経過と共に狂気を孕んだ生気を放つ瞬間を、


澤田はレンズの奥から何を思って見ていたのだろうか。


同じくゲバラも何を思って身分を偽ってまでボリビアへ赴いたのか。

 

澤田が切りとった「その瞬間」をこれまでに何度も観て、


「その瞬間」の前後の短い時間を幾通りにも想像してきた。


フィルムに焼き付けられた瞬間は永遠に動き出すことはない。

 

写真は何度も語り、


そして問いかけ続ける。


いつの頃からか私が探し続けてきた答えには、


残念ながら今日もピントが合っていない。



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会期中にもう一度観に行きたいと思っている