誰がための春

憧 憬 の 轍

 

2024414日 誰がための春

 

弘前公園の桜が咲いた。

次の週末あたりは満開で公園内は朝から賑わう事だろう。

COVID-19、いわゆる「コロナウイルスの5類移行」を受けて今回は飲食禁止エリアなどの制限は無い。

ただ感染者数は再び増えている。

津軽地方の花見は派手で豪華だ。

以前、五所川原の芦野公園で開かれた「幻の観桜会」は昭和30年代を懐かしむ“樟脳かまり”のする一張羅に身を包んだ花見会だった。

今よりも娯楽の少なかった時代、雪に閉ざされて冬を過ごした者たちにとって桜の咲く春は、待ち遠しい季節以外の何物でもなかった。

 

咲いているのは桜だけではない


               

 

先週は小さな蕾だった

 

 

 

 

 

キャブレターやV-Boostユニットはシリンダーヘッドやヘッドカバーを再塗装して組み付けるだけのつもりでいたが、油面調整を忘れていた。

本来なら4基のキャブレターを組み合わせる前に終わらせるべき作業だ。

一般的なサイドドラフトのキャブレターなら本体とフロートチャンバーの合わせ面からフロート端部までを測るのだが、このMIKUNI BDS35の場合は? 

CLYMERのマニュアルによれば本体側面に基準線があり、そこから15~17㎜となっている。

ドレンパイプに測定器(おそらく目盛りが記されたガラス管?)を付けて測るのだが、そんなものは当然持っていない。

要は水パイプ式に実油面を測ればいいのだから汎用のビニールホースで代用した。

15~17㎜なので16㎜で揃えたいが、調整前の油面は10~25㎜と見事にバラバラだった。

 

MIKUNI corp.の下にある基準線


               

 

基準線はフロートチャンバーのカバーにもある



 

キャブレターだけでなくV-Boostユニットにしてもエギゾーストパイプにしても汚れ方の差が大きい事が気にかかっていたが、これだけ油面にバラツキがあると言う事はかなり燃調の悪い状態だったと思う。

それでも普通に走っていたのか? 

型式からアメリカ仕様で逆輸入された車両なのは分かっているし、給排気系をはじめ色々と手が付けられている。

昨年11月、このVMX12を貰い受けてすぐにエンジンは始動したが、走らせてみなくてよかったと今にして思う。

 

即席の「油面測定器」 2本目が16㎜のライン


       

 

16㎜で調整完了



 

実油面で測るしか方法が無いのでフロートのバルブを押し上げるツメを起こしてみたり倒してみたり・・・。

その塩梅と言うか力加減は、これまでに何度もキャブレターを弄って来た経験と勘が頼りだ。

このツメが金属製なのでこんな調整が出来るのだがフロートがすべて樹脂製のものもある。

それは新品に交換しなさいと言う事かもしれないが、安い部品ではない。

純正部品を、さらに 4気筒分ともなれば福沢諭吉1枚では足りない・・・。

 

 

塗膜の劣化が激しいシリンダーヘッドはラジエーターの裏側が特に酷い。

ワイヤーブラシなど使わなくても軽く振れただけでパラパラと剥げ落ちてしまう。

ルーターにステンレスのブラシを付けて使えば効果覿面だ。

 

ラジエーター裏側が最も酷い


                 

 

ワイヤーブラシさえ必要ない



 

シリンダーヘッドの劣化した塗装を完全に落とすにはシリンダーヘッドを外してサンドブラストするのが手っ取り早いのは分かっているが、エンジンを降ろさずにシリンダーヘッドだけを外すのはかなり難しそうだ。

シリンダーヘッドカバーは外すことが出来たので、サンドブラスト後に再塗装する予定だ。

 

外したシリンダーヘッドカバー


                 

 

このあたりの傷みが特に激しい



 

オイルスラッジもほとんど無い 


                

 

カムシャフト周りも問題無いようだ



 

区切りの良いところでVMX12の作業を一段落させて久しぶりに‘75 CB400Fourを走らせてみようと思っていたが、シリンダーヘッドカバーまで外してしまったのでシリンダーヘッドの再塗装に向けた準備でこの週末も終わってしまった。

 

 

眠りにつこうとしていた機械にもう一度息吹を与えてみたい。

それはある意味で傲慢な考えかも知れないが見過ごす事が出来ない時がある。

その機械をもう一度往時の状態に戻してみたいと思う気持ちは恋愛感情、いわゆる“ひとめ惚れ#”にも似ている。

なぜならすべての古い機械に同じ感情を持つ訳ではないからだ。

人間であれば“巡り逢い”とか“巡り合わせ”と言うのだろうが、機械に対してもそれは同じだ。

たとえどんな美男美女であっても万人が異性としての魅力を感じないのと同じだ。

そして巡り合ってしまった運命は受け入れるしかない。

 

「老いらくの恋」と言う言葉がある。

昭和23年(1948年)、歌人川田順は親子ほど年の離れた弟子との恋愛の末に家を出て、亡き妻の墓前で自殺を図った。

そこで「墓場に近き老いらくの 恋は怖るる何ものもなし」と詠んだ事から生まれた言葉だ。

時に川田は68歳。

作家・有島武郎も既婚の担当記者でありまた編集者だった女性との恋愛関係の末に心中した。

数通の遺書の中に「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思わなかった」と言う一節があった。

極めて個人的な話だが、この一節が無ければ深作欣二監督の映画「華の乱」は生まれなかっただろうと思っている。

それにしても映画のキャストが豪華すぎる。

与謝野晶子の歌集「乱れ髪」や詩「君、死にたもうことなかれ」、そして彼女の人生そのものに対する批判などは多くあっても、言葉から滲み出る“本能”は誰も否定できない程の勢いを持っている。

女性の地位が今よりも低かった時代にあって、それは勇気が必要な事だったはずだ。

 

 

恋愛感情の奥底にはどんなに理性的な話を説いても否定できない本能的な性欲が潜んでいると思っている。

本能や衝動を理路整然と説明する事は不可能なまでに難しい。

なぜなら、そもそも理由など無いのだから。

恋愛感情の奥底に燃えていたはずの本能は年齢を経るにつれて勢いを失い、今や風前の灯火だとしても火口の向かう先が変わっただけとも言える。

言い方を変えれば、既に老齢年金を受給できる年齢にも拘らず、異性の事にしか興味が無い人生は寂しい。

もちろんそんな人生も否定するものでは無いが・・・。

古びた機械をいじりながら週末を過ごす。

それは「老いらくの恋」にも似た「老いらくの行為」かもしれない。