20年

憧 憬 の 轍

 

2021年9月12日 20年

 

あの日私は出張先の仙台にいた。

 

夜、ホテルの部屋でテレビを観ていた。

 

テレビのリモコンをベッドに放り、

トイレから戻るとそれまで見ていた番組とは全く関係のない映像が映し出されていた。

 

リモコンをベッドに放った拍子にチャンネルが変わってしまったのだと思った。

 

確か午後10時頃だったと記憶している。

 

映画の1シーンのような映像にしばらく見入っていたが、

それが現実に起こっている事だと知るまでに長い時間はかからなかった。

 

私はそれから朝方までテレビに釘付けだった。

 

様々な情報が錯綜する中、

ワシントンD.Cにいる妹に何度も電話をかけたが繋がる事は無かった。

 

電話かがダメならメールなら、

と思い仕事用に持っていたコンピューターから送信したが返信は無かった。

 

翌朝、私は予定よりも早くホテルを出た。

 

行先が仙台防衛施設局(現在の東北防衛局)だったからだ。

 

予想通り局内は騒然としていた。

 

そしてそそくさと仕事を済ませ私は帰途に就いた。

 

日本の米軍基地もテロの標的になる可能性が囁かれていたばかりでなく、

いわゆる基地経済に依存している街の様相が変わってしまうかも知れない予感の中で基地の状態を確認したかった。

 

ワシントンD.Cの妹と連絡がとれたのは数日後の事だった。

 

当時、NTTコミュニケーションズのOCNでメールのやりとりをしていたがメールが届くことは無かった。

 

後日、米国で多く使われているプロバイダーに登録し通信手段を得た。

 

OCNでメールが届かなかったのは米国中のメールサーバーがセキュリティレベルを上げた事によるものだったらしい。

 

ワシントンD.Cのホワイトハウス連邦議会議事堂を標的にしていたと言われる飛行機はペンシルベニア州の草原に墜落したためワシントンD.Cに被害は無かったが、

搭乗者に生存者はいなかった。

 

またニューヨークでは世界貿易センタービルに突入した2機の飛行機によって南棟が、

さらに約30分後に北棟も崩壊した。

 

その瞬間を映し出すテレビの前で戦争が始まる事を予感した。

 

 

あの日から20年の月日が流れた。

 

とても20年前の事とは思えないくらい鮮明に覚えているのはあの夜、

朝方まで見ていた映像があまりにも衝撃的なものだったからだ。

 

この20年の間に多くの事が検証された。

 

2001年9月11日。

 

当日だけで約3,000人が犠牲となったこの事件は世界中に計り知れない衝撃を与え、

その後の国際社会の流れを変える分岐点になったと思う。

 

約1ヶ月後、アフガニスタン空爆によって戦争は始まった。

             

                     

 

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1980年頃 三沢基地にて



 

 

 

私の暮らす街の空を今日も戦闘機が飛んでいる。

 

かつてよく見かけたF4ファントムやF1やF16も今やF35に替わった。

 

基地の様相に外見上の大きな変化は見られない。

 

毎日繰り返し行われる訓練が実践で役立つ事は分かっていても、

その訓練が有事を想定したものだと思うと「国防」と言う二文字の意味を考えてしまう。

 

かつて柳ジョージ&レイニーウッドが歌った「FENCEの向こうのアメリカ」。

 

彼らが見て来たFENCEの向こうのアメリカと私が見て来たFENCEの向こうの景色は同じものではない。

 

ただそこがFENCEに囲まれた場所だと言う事は今も昔も変わっていない。

一歩、そしてまた一歩

憧 憬 の 轍

 

 

2021年9月5日 一歩、そしてまた一歩

 

 

東京パラリンピックが閉幕した。

 

今回のオリンピックもパラリンピックも当初描いていて大会像とはかけ離れた形になったが、

致命的なトラブルも無く完結した。

 

オリンピックの各種競技はもとよりパラリンピックの選手や記録に改めて人間の可能性を見たような気がする。

 

それらは単なる美談としてではなく、

想像を超えた努力の賜物である事を認識して語り継がれるべきものだ。

 

 

 

 

この週末も再び走り始めた‘75 HONDA XL125K2-Sの点検から。

 

エンジンの音を聞く限りではノイズが大きいような気がした。

 

抜き出したオイルにも金属粉が多い。

 

XL125K2のエンジン、

L125Eも載せ替えたL125SEも潤滑系統やオイルポンプも同じ物が採用されている。

 

L125SEはカムシャフトの端部にカラーが追加されシリンダーヘッドにダメージを与えないように改良されるなどの対策がされているがオイルのフィルターは変わっていない。

 

 

 

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試運転前のXL125


                       

 

 

 

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いたって簡単なオイルフィルター



 

 

このエンジンに使われているオイルフィルターは金属製の「湯切りザル」のような形で決して目が細かいとは言えない。

 

改良したL125SEには出来るなら濾紙を用いたフィルターを採用してほしかった。

 

抜き出したオイルに細かな金属粉が多かったのはカムチェーンの張力不足によって出たものだと思う。

 

カムチェーンの再調整をして試運転する事にした。

 

 

 

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まさにザルのようなオイルフィルター


             

 

 

 

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カムチェーン調整用のボルト



 

 

 

マニュアル通りにエンジンの始動後ロックナットを緩めて上部のボルトを締め込む。

 

ノイズが消えてアイドリングも安定している。

 

おそらく緩みによって暴れたカムチェーンによるものと確信して試運転に出かけた。

 

オイルフィルターは変えようがないので今後は早めのオイル交換とフィルターの洗浄、

そしてカムチェーンの張り具合に注意して乗らなければならないと思った。

 

 

 

オーナーの『大魔神・O氏』は先日からの居候、

‘67 KAWASAKI W1のタペット調整なども今後覚えなければならないと言っているが、

このL125SEのカムチェーンの張り方やノイズから緩みを判断する事も覚えてもらう事になりそうだ。

 

 

XL125の作業と同時進行だったのは『林道1号』ことT氏のHONDA XLR250-BAJAのクランクケースカバーのサンドブラストと塗装。

 

お約束のチタンカラーは耐熱塗料。

 

焼成後の色味が楽しみだ。

 

 

 

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ロックナットを緩めてボルトを締め込むだけ


         

 

 

 

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チタンカラー、いい色です



 

 

 

今日も作業中断中のW1はリアフェンダーの処理に悩んでいる。

 

幅の違いが最大の問題。

 

深型でフレア形状のFRP製のフェンダーはなかなか手強い。

 

それにしてもエライ物を預かってしまった・・・。

 

さらにクランクケースから滲むオイルが気になる。

 

フェンダーの作業が終わり次第にガスケット類を出来る限り交換する予定だ。

 

ドライサンプなのでオイルパンは無いため滲んで垂れる量は多くないとは言え、

いつまでも新聞紙を敷いてもおかれない。

 

作業場ではエンジンの下に敷きっぱなしの新聞紙を「尿漏れパッド」と呼んでいる。

 

 

 

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オモラシ状態のW1


                       

 

 

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右側が純正 問題は形状と幅



 

 

9月の声を聞いてめっきり涼しくなったと感じる。

 

朝夕は寒いと言ってもいいような日もある。

 

こうなれば勝手なもので一晩中窓を開け放っていた日が懐かしく感じる。

 

COVID-19の事もあって今年は思うようにツーリングに出かけられなかった事や行先、

そしてルートの話で軽く盛り上がりながら9月最初の週末が終わった。

 

曲折の向こうへ

憧 憬 の 轍

 

 

2021年8月29日 曲折の向こうへ

 

 

日中はまだ夏を思わせる気温でも夜になると涼しい。

 

開け放った窓の外では鈴虫が泣いている。

 

今年もそんな季節になった。

 

「過去最多の感染者数」とか「大規模クラスター」とか、

ニュースや新聞を見る度に目にする言葉に辟易としている。

 

行政の責任を問う声は日増しに強くなっているが、

個々の責任を問う方が先のような気がする。

 

 

 

 

 

W1の前輪のフェンダーは何とか取り付け、

ステンレス製のパイプ材でステーを作る算段をしている。

 

バーナーで熱してベンダーに掛ければ加工しやすいと思うが変色が心配だ。

 

さらに後輪のフェンダーにはまだ手を付けていない。

 

相変わらず呑気な作業を続けているのは来春に車検を受けると決めたからだ。

 

そしてW1P(白バイ)だった確証が掴めない事の方が気になって古い書籍を捲っている。

 

ただ今日はW1の作業を一時停止し、

先日から再び走り始めた‘75 HONDA XL125K2の点検だ。

 

 

 

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またしても2台体制


                       

 

 

 

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W1の作業、今日は一時停止



 

 

 

オーナーの『大魔神・O氏』によればL125SEエンジンとL125Eエンジンの違いは驚くほどだと言う。

 

ただ高速域での伸びがイマイチ悪い事があるらしい。

 

さらにタコメーターに付いているTURNのパイロットランプが点かないとの事だった。

 

パイロットランプは単なる球切れだと思ったが原因はソケットに発生した錆だった。

 

 

 

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見事に錆だらけ

 

 

 

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内側を磨いただけで

 

 

 

 

ソケットは止水用のゴム製ブーツも劣化が激しい。

 

錆の処理だけでなく近いうちに交換しなければならない。

 

さらに振動を吸収する目的で付いているクッションも硬化している。

 

このL125SEエンジンは部品取りに貰って来た物だった。

 

スプロケットカバーがその当時から無かったのか再生過程で紛失したのかは未だに分からない。

 

幾つかのオークションや中古部品市場を漁った結果、

やっと見つけたスプロケットカバーは珍しい物だった。

 

どうやら輸出用の初期の物らしく、

先端にクッションの付いたポールがカバーの裏側にある。

 

そして表側にはシフトパターンの表示がない。

 

 

 

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裏側のポールは国内仕様には無い


            

 

 

 

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シフトパターンの表示も無い



 

 

 

北米輸出用のパーツリストを見るとこのポールが付いた物と付いていない物が描かれていたが、

国内用のパーツリストにポール付きのカバーは描かれていない。

 

高速域での伸びが悪い事については考えられることが幾つかある。

 

キャブレターのセッティングに当たって以前のL125Eの時のデータを基にしたため、ジェット類の選択を考え直す必要があるかも知れない。

 

そんな事よりも心配なのはオイルの供給ラインに何か問題があって焼き付きかけていた可能性も捨てきれない事だった。

 

L125SEはL125Eの欠点を補う様に各部が見直されているが、

オイルポンプは同じものが使われている。

 

再始動後初めてのオイル交換と数種のジェット類を持って次の週末は少し長い距離を走ってみようと思っている。

 

 

 

「W1 FILE」と言う1986年第1刷発行の書籍を見つけた。

 

あとがきによればメグロK型からKAWASAKI W1について3年がかりで調べた、

データ解析のような1冊だった。

 

1960年から1974年までの生産台数やフレームの図面まで掲載されている。

 

そんな中、錆だらけのW1が某オークションに出品された。

 

書類上の初年度登録が昭和45年(1970年)のポリスモデルで、

欠品部品も多い。

 

作業場の居候は昭和42年初年度登録なので3年後に作られた事になる。

 

フレームナンバーもエンジンの番号も公開されていたので今後、

居候の正体に迫る手掛かりになりそうだ。

 

次の週末は早くも9月。

 

気持ちよく走れる日数のカウントダウンが始まる。

 

 

手探りの明日

憧 憬 の 轍

 

2021年8月22日 手探りの明日

 

AFPによれば世界のCOVID-19による死者数が既に442万人を超え、

これまでに2億1千万人以上の感染が確認された。

 

この統計は各国の保健当局の発表に基づいたもので、

WHOの推計では感染による間接的な死亡例を含めると公式統計の2~3倍になる可能性があると言う。

 

各種の報道で「医療崩壊」と言う言葉に触れる機会が増えたと思う。

 

2度目のワクチン接種を終えて、3度目の通知が近々に来そうな気がした。

 

 

 

 

 

この車体は果たしてW1Pだったのか。

 

1966年以降に生産されたW1、W1S、W1Pの台数とフレームナンバーから様々な事を考えている。

 

個人的にはW1P(白バイ)だったと考えているが確証には至っていない。

 

週明けにも「W1S/W1P使用説明書」と言う1968年(昭和43年)の資料が届く予定なので、

それによってさらに確信を深める事になるのか、

あるいはまた謎が深まるのか楽しみなところだ。

 

そんな話とは別に「メグロ化計画」は進められ、

他車種用の深型フェンダーの加工と取り付け。

 

アルミ板から切り出したブラケットは結局3回目に作った物を使う事にしたが、

フロントフォーク先端とフェンダーを結ぶステーは純正品が使えなかった。

 

 

 

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仮合わせ中


                            

 

 

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1回目と2回目のブラケット



 

 

フェンダーを押さえるステーはφ12のパイプ材から作られている。

 

同径のステンレスパイプが見た目にも丁度いいと思ったが、

まずは手元にあったアルミパイプで試作してみた。

 

 

 

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フェンダーのステーは試作品


                

 

 

 

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問題はリアフェンダー



 

 

 

言うまでも無くステンレスはアルミよりも硬いので加工は難しいかもしれない。

 

それでも何とかなりそうなのでリアフェンダーの事を考える事にした。

 

純正品端部の取り付け用のボルト穴を再現するのは簡単だが幅と形状が違い過ぎる。

 

FRP製のフェンダーなので切除は簡単でも、糸ノコを持

古い地図を捲る楽しみ 番外編16

憧 憬 の 轍

 

2021年8月17日 古い地図を捲る楽しみ 番外編16

 

およそ25年前に津軽地方の田舎道を走っていた時、

偶然に見かけた木造校舎を見て以来、

古い木造校舎を探して写真を撮って来た。

 

気が付けば既にライフワークと言ってもいいような気もする。

 

今回、野暮用の道すがら、宮城県登米市にある「米谷国民学校 相川分教場」を訪ねた。

 

 

 

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校門に残された表札


              

 

 

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花の咲く頃にもう一度訪れてみたい



 

 

校門に記された学校の「学」の字や分教場の「分」の字が時代を感じさせる。

 

この建物だけでなくこれまでに幾つもの「尋常小学校」や「分校」などを見て来たが、

改めて学校の名称について調べ直した。

 

国民学校」は1941年(昭和16年)の国民学校令によるもので1947年に学校教育法が交付されるまで続いた初等学校(小学校)の事だ。

 

当時は初等科6年、高等科(中学校)2年と定められていた。

 

現在とは違い義務教育は8年間だった。

 

 

 

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出来る事なら中も見てみたい


          

 

 

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建物は多くを語らない



 

 

この分教所場について調べてみた。

 

教場として設立されたのは1876年(明治9年)、

1920年大正9年)に大改築され、

その後も小規模な改築や修繕を繰り返し1968年(昭和43年)に用途廃止とされている。

 

その後、地区の集会所や消防団の施設として利用されてきたが1992年(平成4年)以降は使用されていなかった。

 

2009年(平成21年)6月、市に財産の借り受け申請書が提出された。

 

所定の審議の結果、2年後に個人との賃貸契約が締結され現在に至っている。

 

人が住んでいると言う情報は以前から得ていたが賃貸だとは知らなかった。

 

それを知る事になったのは今年6月の市議会での一般質問が公開されていた事だった。

 

ある市議会議員はこの建物が持つ歴史的価値などの観点から現状の契約や経緯について、

市側を厳しく問い詰めた。

 

その議員の事や借りている個人について、

さらには賃借料についても自分は何ひとつ発言する立場にはない。

 

そして建物は歴史を物語る証人でありながら声を発することは無い。

 

この分教場の現状は、ほぼ1920年大正9年)の改築以来変わっていないらしい。

 

同じ登米市には1888年明治21年)に建てられた「登米尋常小学校」が教育資料館として1981年(昭和56年)に重要文化財の指定を受けている。

 

日本の建築関係者としては最初にヨーロッパに渡り洋風建築を学んだ大工、

山添喜三郎が設計、監督をしたと記録されている。

 

古い学校を訪れる度に知るのは建立に当たって地元の人々が多くの寄付を惜しまなかった事だ。

 

そこからは混沌とした時代にあっても教育の重要性を知り、

地域の目印となるような建物を造ろうとした事が読み取れる。

 

観光資源として、

言い換えるなら収益目的で古い建物を残す事には賛否両論があって当然だが、

それを建てるに際しての地域の人々の思いだけは残さなければならないと思う。

 

かつて人口の急増と共に多くに学校が造られたが今、

学校は統合や廃校が相次いでいる。

 

様々な形でその歴史は残され、

校舎を別な用途に再利用している例も多い。

 

 

 

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宮城県志津川町立林際小学校


          

 

 

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宿泊施設として使われている



 

 

古い学校であれば何でもいいと言う訳ではなく、

「木造で外壁が下見板張りの建物」ばかりを探している。

 

思い起こせば自分の生家も今は無いが木造の下見板張りで、

その古くさい外観が嫌いだった。

 

後に少しだけ勉強し、

仕事として建築に携わるようになってから同じ物がふたつと無い木目の表情や質感に気付いた。

 

コンクリートでさえ仕上がりはすべて違う。

 

そんな事にさえ気づかずに過ごして来た反省も込めて古い地図を頼りに訪ねた学校は数え切れない。

 

 

 

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秋田県男鹿市立加茂青砂小・中学校


       

 

 

 

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有形文化財として文化庁に登録されている



 

インターネットやSNSの普及によって情報量は格段に増えたが、

行ってみなければ何も分からない事だけは変わっていない。

 

 

山あり谷あり

憧 憬 の 轍

 

2021年8月15日 山あり谷あり

 

COVID-19の新規感染者数が過去最多数を連日更新している中、

各地で大雨による被害が続出している。

 

本県でも土砂災害によって橋が崩落し、

今日現在、孤立したままの集落もある。

 

さらに座礁し大破した貨物船から大量の重油が流れ出すなど、

気の滅入るようなニュースばかりだ。

 

 

 

 

盆休みも今日まで。天気さえ良ければ日帰りツーリングに出かけているところだが細かい雨が止まない。

 

それでも雨を縫うようにして走って来たのは『特攻隊長』。

 

彼の場合、そろそろ禁断症状が出る頃だ。

 

作業場では新たな居候ことKAWASAKI W1をより「メグロっぽく」する計画が進行中だ。

 

大魔神・O氏』がかつてYAMAHA SR500で使っていたFRP製のフェンダーを持ち込み、

何とかして取り付けようと言う話だ。

 

フロントのフェンダーは取り付け用のブラケットさえ作れば大きな問題は無いが、

問題はリアフェンダーだ。

 

 

 

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フロントは比較的に簡単な作業で済みそうだ


      

 

 

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リアは大幅な加工が必要



 

 

元来、他の車種用に作られているのだから簡単な事ではないのだが、

オーナーの『大魔神・O氏』のアタマの中ではこのフェンダーを装着したW1が既に走っている。

 

この車体がKP型、

すなわち白バイだった可能性があり、

1967年(昭和42年)型のW1の主要諸元とは明らかに違う部分がある。

 

それはフロントフォークの形状やタイヤサイズやキャブレター、

マフラ-の形状などだ。

 

古い資料から探し出したW1Sをベースにした白バイ=W1SPの写真を見ると色やサイレンなどを除けばほぼそっくりだ。

 

しかしW1Sは1968年に発売された。

 

 

 

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W1SベースのW1SP


                       

 

 

 

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1968年型のW1S



 

 

 

古い書籍やインターネットから様々な情報を集めているが、

この車両がKP型だと言う確証には至っていない。

 

前のオーナーによって「KP型風」にされている可能性も捨てきれないからだ。

 

KP型の主要諸元や各種のデータが見つかればもう少しはっきりすると思う。面白くなって来た。

 

ところで8月8日付けのブログには1967年(昭和47年)と書いてしまったが、

昭和42年の間違いだった。

栄枯盛衰 盛者必衰の理

憧 憬 の 轍

 

2021年8月8日 栄枯盛衰 盛者必衰の理

 

IOCの会長が公的な場で日本国民を中国国民と言い間違えてからそろそろ1ヶ月になるが、

今度はIOCの公式チャンネルで銅メダルに輝いた日本人の体操選手を、

「中国代表」と誤って紹介し中国国旗まで付けていた。

 

いずれもすぐに訂正されたが穏やかな話ではない。

 

JOC組織委員会が正式に抗議したと言う話も聞こえてこない。

 

それぞれに立場があるのは分かるが笑えない話だ。

 

 

 

 

 

今日は東京オリンピックの閉幕式だが作業場はそれどころではない。

 

今回の居候はカワサキ

 

KAWASAKIではなくカワサキのW1、

いわゆる「ダブワン」だ。

 

初年度登録は1967年、(昭和47年)の「漢・カワサキ」だ。

 

作業場に到着する前から写真を見て気になっていたのはこれまでに何度か見て来たW1とは明らかに違う部分が幾つもある事だった。

 

改めてW1について調べてみると、

これまでに見て来た車体はW1SまたはW1SAだった事を知った。

 

そして現在のKAWASAKI(カワサキモータースジャパン)の歴史と、

メグロ(目黒製作所)が1964年に吸収合併される経緯や当時の販売状況も知った。

 

カワサキメグロSG250(1964~1969年)はまさにカワサキメグロの過渡期のバイクだ。

 

発売当時はカワサキメグロだったが2年後にカワサキSG250となりメグロの名前は消えてしまう。

 

W1もメグロK2のエンジン(496cc)をベースに開発され1966年にカワサキ650―W1として発売された。

 

そして1971年のW1SAと比べてみると全く違う車種と言えなくもないくらい細部が変更されている。

 

 

 

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カワサキメグロSG250の最終型にはメグロの3文字


   

 

 

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メグロ・ジュニアは日本初の250cc

 

 

 

さらにW1について調べてみると初期型のフロントフォークには蛇腹状のブーツが装着されている車両が多いがこの車体には無い。

 

またスピードメーターもヘッドライトに組み込まれたデザインでタコメーターは無い。

 

タイヤサイズに関しても諸元と違っている。

 

前のオーナーが意図的に手を加えたのでなければ、

メグロ」の3文字がどこかに書かれているような気がしてくる。

 

 

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スピードメーターはヘッドライトに組み込まれている


    

 

 

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1968年型650W1 メーター類はヘッドライトと別体



 

 

W1の系譜やメグロについて調べているうちに興味深い記事を見つけた。

 

1964年の東京オリンピックの際に聖火ランナーを先導した白バイはメグロ スタミナKP。

 

その車体は今も現存していて群馬県の「浅間火山博物館」で保存されている。

 

白バイだけに真っ白に塗装されているが細部を見ると今回の居候とは似ている部分が多い。

     

  

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メグロ スタミナKPは後にカワサキ500KP2として白バイに採用された



 

 

 

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KPの原型メグロ スタミナK1


                  

 

 

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カワサキと言うよりメグロと言うべきかも・・・



 

 

 

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このエンブレムもカワサキ-メグロ時代の形


         

 

 

 

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スピードメーターの側にはAMPメーター



 

 

 

現在のバイクは一般的にシフトレバーが左側にありブレーキペダルが右側にある。

 

しかしこのW1は逆で、いわゆる「右チェンジ」だ。

 

目黒製作所は1924年創業の日本、

アジア最古のオートバイメーカーだが、

車両制作にあたっては英国車を範としていた。

 

そのため社名が消えてもメカニズムは継承されたのだが、

1971年の北米輸出対策でシフトレバーは左側でなければならなくなり、

リンクを介して左側に移された事は有名な話だ。

 

 

 

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後輪のブレーキは左側 


                    

 

 

 

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シフトレバーは右側



 

 

 

かつて日本には283社ものオートバイメーカーがあったと言う。

 

現在は誰もが知っている4社だけだが。

 

多くのメーカーが町工場のような所で自転車のフレームに小型のエンジンを載せただけの車両を作っていた。

 

クランクシャフトに取り付けたゴムのローラーで直接リムを回していたものもあった。

 

イギリスやドイツでは600社以上、

フランスやイタリアでも500社以上あったらしい。

 

1馬力にも満たない非力なエンジンでも人を乗せて走る事が出来たり、

あるいはリヤカーを引いて荷物を運ぶことが出来るだけで良かった時代は遠い過去の事だ。

 

残念ながらその足跡の多くは残されていない。

 

試行錯誤を繰り返して技術は進歩した。

 

そして今、レシプロエンジンは電動モーターに替わろうとしている。

 

近い将来、キャブレターが付いたバイクは博物館でしか見られなくなると思う。

 

まぁ、そんな日が来るまで生きていられるとは思わないが・・・。

 

 

古い話だが若い頃にKAWASAKIのMACHⅢを買った時の事。

 

親父から「どこのバイクだ」と訊かれ、

カワサキだと答えると「あぁ、メグロか」と言われた。

 

当時、カワサキメグロの関係をほとんど知らなかった私はタンクを指さして「KAWASAKIって書いてるべ」と言ったが、

横文字に疎い親父はそれを見もせずに「だからメグロだべ」と言ってヘルメットも被らずに乗って行ってしまった。

 

既にヘルメット着用が義務化されていたが昭和ヒトケタ世代には法改正などどこ吹く風で、

警察官に注意されたが「知らねがった」のひと言で済まされたらしい。

 

もしも親父がまだ生きていてこのW1を見たら何と言っただろう。

 

「やっぱりメグロだべ」と言ったに違いない。

 

 

 

 

ところでHONDA JC58にフィッシュテールのマフラーを取り付ける作業は試行錯誤の末に何とか一段落した。

 

マフラー本体が思いのほか重かったため今後、

ブラケットの補強が必要になるかもしれない。

 

電気配線用の鋼管で作った連結用の部品と純正のエギゾーストパイプやマフラーの間にはグラファイト製のテープを巻いてガスケット代わりにした。

 

ただマフラーバンドは気に入った物が見つからず今回は簡易なものだ。

 

 

 

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グラファイトのテープ 安価だけど脆い


           

 

 

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で・・・、こんな事になったとさ



 

 

話が前後するが今回の居候、

KAWASAKI 650W1について調べる中で、

目黒製作所が最初に完成させたZ97と言うモデルの写真を見つけた。

 

古い写真なので細部までは見て取れないがマフラーだけははっきり分かる。

 

このZ97の約20年後にJC58は発売されるがJC58も少なからず英国車の影響を受けている。

 

大魔神・O氏』が側にいたら「なるほどね」と言いたくなるような写真だ。

         

 

 

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1937年製 メグロZ97型 OHV498cc単気筒 11馬力 総生産台数:約850台



 

 

Z97は英国車Velocetteのレーサー、

KTTを参考にして作られたらしい。

 

排気量1ℓあたり20馬力そこそこの出力でも当時は誇らしいものだったはずだ。

 

 

アテにならないと言いながらも天気予報が気になる。

 

明日からは雨の日が多く気温も下がるようだ。

 

COVID-19のために今年もねぶた祭りは中止になったが、


「ねぶたが終わればもう秋」、今年もそんな季節になった。