憧 憬 の 轍
2021年8月17日 古い地図を捲る楽しみ 番外編16
およそ25年前に津軽地方の田舎道を走っていた時、
偶然に見かけた木造校舎を見て以来、
古い木造校舎を探して写真を撮って来た。
気が付けば既にライフワークと言ってもいいような気もする。
今回、野暮用の道すがら、宮城県登米市にある「米谷国民学校 相川分教場」を訪ねた。
校門に記された学校の「学」の字や分教場の「分」の字が時代を感じさせる。
この建物だけでなくこれまでに幾つもの「尋常小学校」や「分校」などを見て来たが、
改めて学校の名称について調べ直した。
「国民学校」は1941年(昭和16年)の国民学校令によるもので1947年に学校教育法が交付されるまで続いた初等学校(小学校)の事だ。
当時は初等科6年、高等科(中学校)2年と定められていた。
現在とは違い義務教育は8年間だった。
この分教所場について調べてみた。
教場として設立されたのは1876年(明治9年)、
その後も小規模な改築や修繕を繰り返し1968年(昭和43年)に用途廃止とされている。
その後、地区の集会所や消防団の施設として利用されてきたが1992年(平成4年)以降は使用されていなかった。
2009年(平成21年)6月、市に財産の借り受け申請書が提出された。
所定の審議の結果、2年後に個人との賃貸契約が締結され現在に至っている。
人が住んでいると言う情報は以前から得ていたが賃貸だとは知らなかった。
それを知る事になったのは今年6月の市議会での一般質問が公開されていた事だった。
ある市議会議員はこの建物が持つ歴史的価値などの観点から現状の契約や経緯について、
市側を厳しく問い詰めた。
その議員の事や借りている個人について、
さらには賃借料についても自分は何ひとつ発言する立場にはない。
そして建物は歴史を物語る証人でありながら声を発することは無い。
この分教場の現状は、ほぼ1920年(大正9年)の改築以来変わっていないらしい。
同じ登米市には1888年(明治21年)に建てられた「登米尋常小学校」が教育資料館として1981年(昭和56年)に重要文化財の指定を受けている。
日本の建築関係者としては最初にヨーロッパに渡り洋風建築を学んだ大工、
山添喜三郎が設計、監督をしたと記録されている。
古い学校を訪れる度に知るのは建立に当たって地元の人々が多くの寄付を惜しまなかった事だ。
そこからは混沌とした時代にあっても教育の重要性を知り、
地域の目印となるような建物を造ろうとした事が読み取れる。
観光資源として、
言い換えるなら収益目的で古い建物を残す事には賛否両論があって当然だが、
それを建てるに際しての地域の人々の思いだけは残さなければならないと思う。
かつて人口の急増と共に多くに学校が造られたが今、
学校は統合や廃校が相次いでいる。
様々な形でその歴史は残され、
校舎を別な用途に再利用している例も多い。
古い学校であれば何でもいいと言う訳ではなく、
「木造で外壁が下見板張りの建物」ばかりを探している。
思い起こせば自分の生家も今は無いが木造の下見板張りで、
その古くさい外観が嫌いだった。
後に少しだけ勉強し、
仕事として建築に携わるようになってから同じ物がふたつと無い木目の表情や質感に気付いた。
コンクリートでさえ仕上がりはすべて違う。
そんな事にさえ気づかずに過ごして来た反省も込めて古い地図を頼りに訪ねた学校は数え切れない。
インターネットやSNSの普及によって情報量は格段に増えたが、
行ってみなければ何も分からない事だけは変わっていない。