憧 憬 の 轍
2022年3月6日 冬の終わりに
朝夕は冷えても日中の陽気が雪を解かす。
積み重ねた雪の嵩も目に見えて減った。
霙は次第に雨に変わり日を追うごとに春の予感が強まる。
連日ウクライナ周辺から届くニュースの陰に隠れてしまった感のあるCOVID-19の事も忘れていられない。
本県だけでなく東北地方の新規感染者数は増加の一途を辿っている。
米軍基地の感染者数が再び増えている事も気がかりだ。
先週末に発注した部品がこの週末に間に合わない事が分かったので、キャブレターに手を付ける事にした。
2基のキャブレターを解体した時から気にかかっていたのは片方のフロートにあった補修痕。
補修されていないフロートが10.4gだが補修痕のある方は11.0g。
この0.6gの差を少しでも縮めるために余分なハンダを削った。
マニュアルによれば油面高は27.5mm±1.0mm。
余分なハンダを0.2gの差まで削ったが、この差と±1.0mmの許容範囲との関係は分からない。
そんな事も然ることながら削り過ぎていない事を願ってフロートを灯油に浮かべてみる事にした。
当初の予定はシリンダーヘッドやヘッドカバーまで組み終える事がこの週末の予定だった。
シリンダーヘッド周りに用いるワッシャーはパーツリストの品名はプレーンワッシャーだが、これまでに見た事の無い形状だった。
それは厚さだけでなく上面に刻まれた六角ボルトをなぞったような窪みや裏側に穿かれた溝や僅かに湾曲した断面など、振動による緩み対策を考えて作られた部品だと思った。
一般的なスプリングワッシャーではなく、こんな形のワッシャーを作る事まで考えていた当時の技術者たちの熱意を垣間見た気がした。
補修痕のあったフロートが問題ない事を確認し細々とした部品を組み込む。
『編集長』は「オモラシ君2号」ことHONDA CS90も気になるが、Zephyrχのブレーキキャリパーの事も気になって仕方ない。
漏れたブレーキフルードに侵された塗装が気にいらない。
オマケに再塗装されていたようで、さらに気に食わねぇ・・・。
ブレーキフルードや剥離剤にも負けない特殊な塗料で塗装する事も考えながら、アルミナでブラストした上でグラスビーズを使ってみた。
まずはリアブレーキのキャリパーからだが、鈍い光沢に満足しているようだ。
まずはリアブレーキ、そしてフロント。
リアに比べてフロントは手強い。
ダブルディスクで対抗2ポット。
計8個のピストンを抜くだけでも大変だった。
やっとピストンを抜いて一気に作業を進めたいところだが、オイルシールの溝には固形化したブレーキフルードが堆積している。
さらに真っ黒にこびり付いた汚れが簡単に落ちてくれない。
窓の外が薄暗くなったと思ったら湿った雪が降っていた。
春彼岸も春分も近い。
もうすぐ冬が終わる。
閑話休題 Надеяться(希望)
「ペンは剣よりも強よし」。古い言葉だ。
現代における剣がさしずめミサイルや砲弾なら、ペンはSNSや経済制裁なのだろうか。
1993年10月、当時のロシアのエリツィン大統領が訪日した頃、私はハバロフスクやウラジオストックで日本が占領していた当時の建物を見ていた。
ソビエト連邦が崩壊した直後だった事もあって、極東の街が混迷していたのは経済面だけでなかった。
それでも新たなビジネスチャンスを求めて日本からも商社や企業が進出していた。
公設市場には人参か牛蒡かも見分けがつかないような野菜が少しあるだけで、そこに買物客の姿は無かった。
「自由市場に行けば何でも揃う」と聞いて行って見ると肉も野菜も、煙草や下着まで売っていた。
当時、日本では200円で売られていたHi-liteは100円でMarlboro110円、U.S.$かJP¥が通貨だった。
自由市場と言ってもいわゆる闇市だ。
すぐ側にあった喫茶店(のような所)でただ苦いだけの温いコーヒーを啜りながらテーブルに1$紙幣を置くと、すぐにたどたどしい英語で話しかけて来た若者がいた。闇両替だ。
「日本から来たのなら日本円を持っているだろう」と言うので1,000円札を見せるとU.S.$もJP¥もどちらも公的レートの2倍近いレートで換金すると言った。
この頃、外国人が宿泊できるホテルは限られていて、夜になると玄関先には売春婦が並び、中には賄賂を払ってホテル内で客を物色する者も多くいた。
夜9時にホテルのフロントは無人になり、小さなテーブルに部屋の鍵を並べた老婆が各階のエレベーターホールで宿泊客の帰りを待っていた。
朝食は向こうが透けて見えるくらい薄くスライスされた僅かなハムと大量の黒パンとスープ。
ホテルのフロントで日清のカップヌードルが売られているのを見た時、ある程度予想していたが、朝は黒パンをスープで流し込むしかなかった。
ロビーの片隅にあった「格安で通訳」と日本語で書かれた張り紙に連絡してみると、やって来たのは二人の若者だった。恋人同士だと言う。
二人とも大学を休学して働いていると言った。
主に短期間だけ商社に雇われて通訳をしているが、次の契約まで間があるので旅行者相手の「格安通訳」をしていたのだった。
男の方は体格もよくボディガード代わりにもなると思って2日間だけ雇う事にした。
二人とも日本語の勉強は大学に入ってからしたと言うが驚くほどレベルが高かった。
日本の若者たちが使う言葉や音楽や文化に貪欲なまでに興味を持ち、社会主義体制の中で生まれ育った自分たちと日本の若者を対比させて物事を考える姿勢がその語学力を培ったのかもしれない。
最後の夜、私達はほとんど客のいないレストランで食事をした。
そして翌日、彼らは私を空港まで送ってくれた。
別れ際に彼女が言った言葉が今も耳に残っている。
「民主主義とか資本主義とか言っているけど、どれだけの人たちがそれを知っているのか。
この国が今後そうなったとしても、その頃には私たちはどこにも行けない、何も出来ない老人になっていると思う。
だから今、お金を稼いで日本かアメリカに行きたい、大学なんて卒業できなくてもかまわない」
あれから約30年、二人の夢はかなったのだろうか。
滑走路と地平線だけしか見えない空港ではレストランも売店も閉まっていた。
そればかりか窓ガラスは割れていて国際線が飛ぶ空港とは思えない所だった。
そんな所で私が7時間も飛行機を待つ事になったなんて、もちろん彼らが知るはずも無い。
やはり何も変わっていなかったのかもしれない。