憧 憬 の 轍
2017年 2月 23日 忘れ物
コーヒー豆を挽く時、その匂いと共に思い出す事が、ある。
あの日、Nさんは何故に小樽の水天宮に行きたかったのか。
仕事を休んでまで。
O君はその理由も訊かずにクルマを走らせた。
花園の交差点を右に折れて、狭い小路を進んだ坂の上に水天宮がある。
正面の二段に重なって見える千鳥破風が特徴的な建物だ。
きつく目を閉じて一心に何かを祈るNさんの横顔に、
全ての言葉を拒絶するような一種の気迫のようなものを感じてO君は声をかけるのを躊躇った。
暫しの沈黙の後、急な石段をゆっくりと下りながらNさんは
「ありがとう」とか「ごめんね」とか、そんな言葉を繰り返した。
この窓を最後に開けたのは何時だったのか
札幌までの帰り道、Nさんは人が変わったように饒舌だった。
客商売をしていただけに無口な人ではなかったが多弁な人ではなかった。
O君はそんなNさんの言葉に相槌を打ちながらも、
よく笑う彼女の横顔の向う側に抱え込んでいる苦悩のようなものを感じていた。
あの窓から誰が覗くのか
季節が変わる頃、Nさんは関東地方へ嫁ぐと聞いた。
O君にとっては突然の出来事だったが、
彼も既に札幌を離れる事が決まっていて引越しの準備に追われていた。
最後に会った日にNさんは谷川俊太郎の詩集をO君に手渡した。
その時の笑顔にはあの日、彼女の横顔に感じた重苦しい影はなかった。
栞は今でも同じページに挟んだままだ。
もしも、もう一度Nさんに会う事があれば、
栞のページに書かれた詩の意味と水天宮へ行きたかった理由を訊いてみたいとO君は思っている。
今ならそれを訊いても許される様な気がする。
鳥はどこへ飛んで行くのか