憧 憬 の 轍
2018年10月23日 回帰と邂逅の時間旅行 番外編7
フィルムスキャナ。
要するに“フィルムを読み取る”機械。
一眼レフカメラを初めて手にして以来、ネガはほぼすべて保管してある。
デジタルが一般的になって銀塩フィルムを使う事はほとんどなくなった。
高性能な機器は当然高価で手が出ない。
そうかと言ってあまりにも中途半端な物も使いたくない。
解像度とか画素数とか、デジタル写真の基礎を勉強し直す事から始めなければなかった。
秋の夜長は読書に限る、と思っていたが、しばらくは古いネガフィルムと長い夜を過ごす事になりそうだ。
1カットごとに思い出すこともあるだろうと思うと、これも秋の夜長に相応しいような気がした。
この椅子に腰かけて本を読みたかった
YⅡさんは2歳年下の明るく活発な女の子だった。
涙や悩みとは無縁なような笑顔を振りまき、いつも周囲を明るくしてくれる存在だった。
公園に出かけた事や、当時よく行った定食屋で一緒に食事をした事は今も覚えている。
古いネガフィルムを一枚一枚デジタル化する作業の中で、彼女の写真がいずれ出て来る事を楽しみにしていた。
郊外の公園の芝生で無邪気に笑う姿も、おどけたポーズも、実に彼女らしい。
記憶の中の彼女そのものだった。
突然に僕のアパートを訪ねて来て、勝手に寛いでいる姿は天真爛漫と言う言葉がよく似合う。
古いネガフィルムは忘れていた記憶をも思い出させてくれる。
YⅡさんと行った記憶のある郊外の公園のベンチとは明らかに違うベンチに彼女は座って空を見上げている。
そして数枚後のカットに僕も写っている。
そこが函館だと言う事に気付いたのは記憶によるものではなく、背景に写っていた建物からだった。
古いネガフィルムはさらに気付かなかった、あるいは忘れていた事実を語る。
今さらながら、スナップした彼女の表情が他の写真と違っている事に気付いた。
それはカメラを向けられていることを知っている時と気付かないでいる時の表情の違い。
おそらくカメラに気付いていない時の彼女の顔こそが本当の彼女の顔だったのだ。
函館山の展望台で腕を組んで写した写真の彼女は誰もが知っている笑顔の彼女だった。
一緒に函館まで行った事すら忘れていた自分を恥ながら、さらに作業を進めると公衆電話から出て来るスナップ。
その時の視線こそがあの日の彼女を表しているような気がした。
白樺林の向こうには湖があった
笑顔の向こうの、気付いてあげられなかった想いを古いネガフィルムが教えてくれた。
そう言えば「北海道で生まれて育ったのに函館山に登ったことが無い」と言ったのは彼女だったのかも知れない。
「俺は小学校の修学旅行の時に初めて登って、その後も夜景が見たくて何度も登ったよ」。
そんな会話をしたような気がする。
YⅡさんと函館へ行く事になったのはそんな会話がきっかけだったような気もする。
ここで何を語り合ったのかは思い出せない
YⅡさんとは連絡がとれない訳ではないが、今さら二人で函館へ行った時の事を尋ねるつもりはない。
古いネガフィルムの中に満ちる幾つもの忘れていた思い出に浸りながら、夜は更ける。
まるで自分の過去と向き合うような時間は面白いと言えば面白いのかもしれない。
しかし忘れていた思い出だけでなく、忘れたい思い出も古いネガフィルムは教えてくれる。
忘れていた思い出に気付く事は、また別な意味で新鮮な事でもあるが、時に忘れていたい思い出は残酷でもある。
読み取れなかった視線や気付かなかった想い。
何気ない表情がそれぞれに勝手に語りだす。
薄っぺらなセルロイドの断片には決して変えることの出来ない過去が詰まっていた。
今となってはその写真を撮った目的すら分からないカットも多い。
もちろん当時は何かの目的があって写したものだったはずだ。
古いネガフィルムのデジタル化はまだ五分の一も進んでいないが、自分の過去と向き合う行為は想像していた以上に辛いものがある。
経年劣化によって変色してしまったネガも少なくない。
失われつつある色彩は、やがては朧気になる記憶と同じなのかもしれない。