海峡とほろ苦い泡 番外編11

憧 憬 の 轍

 

2019年11月2日 海峡とほろ苦い泡 番外編11

 

 

K美から手紙が届いた。

 

SNSやインターネット環境を介したメールが主流の時代にそれは万年筆で書かれていた。

 

どこか古めかしくも懐かしい横書きの白地の便箋に群青のインクが鮮やかだ。

 

さらにK美がこんなにも達筆だったとは知らなかった。

 

すぐに返事を書こうと思ったが、久しくペンを持って字を書いていないためか自分は悪筆極まりない。

 

さらに読み返すと誤字だらけだったので手書きの返事は諦めようかと思っている。

 

古い歌だが荒木一郎の『君に捧げるほろ苦いブルース』。

 

その中に「横書きの白い地の便箋は、愛を記した時もある」と言う歌詞がある。

 

手紙を読み終えて思い出したのはK美と一緒に仕事をしていた頃、ラジオから流れて来たこの歌を聴いてK美が一緒に口ずさんでいた事だった。

 

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K美は東京の夜景が見えるマンションも、海外で購入した幾つもの家財も、“私の戦闘服”だった高級ブランドのスーツもすべて処分した。

 

どれもこれも驚くばかりの安値で買い叩かれたが、不要なものに金銭的な価値を求めるべきではないと考えた。

 

履き古したブルージーンズに量販店で買ったスウェットシャツとスニーカーで目指したのは故郷、函館。

 

盆休みにローカル線を乗り継いで帰った函館へ今度はもっと長い時間をかけて帰ろうと思った。

 

 

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10月の東京にはまだ夏の匂いが残っていたが、東北地方は既に紅葉が始まっていて標高の高い土地では紅葉の彩が見られた。

 

運転免許は持っていても数年ぶりに運転する軽自動車はレンタカー、事故だけは避けたい。

 

運転には次第に慣れたがやはり心細かった。

 

当初考えていた旅程とは全く違う毎日だったが、旅は終わるのではなく自らが終わらせるものだと言う思いに変わりはなかった。

 

 

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 青森でレンタカーを乗り捨て、以前にも乗ったフェリーの乗船名簿を書いた。

 

新幹線を使わなかったのは海路で北海道へ渡る事に拘ったからだった。

 

もしも週に1便だけでも青函連絡船が就航していれば、何日でも青森で待っていたかもしれない。

 

この海峡の向こうで長かった旅が一段落する。

 

いや、させる。

 

生まれ故郷の函館が長い時間探しあぐねた場所のようにも思えた。

 

白髪交じりの髪の毛を掻き上げながら弟はフェリー埠頭まで迎えに来てくれた。

 

相変わらず不愛想な男だと思った。

 

助手席でシートベルトを締めた時、うつむきながら髪を掻き上げる仕草が昔の恋人と似ている事を思い出して笑いがこみ上げた。

 

車窓に映る懐かしい景色と時代が変えてしまった景色。

 

それらを眺めながらK美は自らの旅路を回想していた。

 

 

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懐かしさと戸惑い、驚きや疑問。

 

それはここで生まれてここだけで暮らして来た者と、そうではない者との狭間にある感覚差なのかもしれない。

 

しばらくしてK美はやっと帰り付いたはずの場所である種の違和感を覚え、「やはり帰って来るべきではなかったのかもしれない」、そんな事も考え始めていた。

 

東京で蓄えた預金と処分した家財で得た現金で、しばらくは老いた母の面倒を見ながら、少しは役に立つ姉でいたかった。

 

既に痴呆が進んでしまった母親を弟は施設に預けたいと思っていたらしい。

 

事実それは最適な選択肢だったかもしれない。

 

母親を高額な費用がかかる施設に入所させる事さえもK美の蓄えをもってすれば難しくは無かった。

 

しかしK美は街外れに小さな中古の一軒家を買い、母を連れて二人で移り住む事にした。

 

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小高い丘の上の古びた家からは津軽海峡が見渡せる。

 

海を見ながら時々母は思い出したように若い頃の事を語る。

 

自分は十和田湖の近くの小さな村で生まれ、親の仕事の都合で転校する度に他所者扱いされても、負けるものかと意地を張って来た事。

 

おそらくどの記憶にも思い違いはないだろう。

 

そんな事を語る母の顔は、古いアルバムの変色しかけた白黒写真で見た若い頃の母のままだと思った。

 

父と母の馴れ初めについては詳しく聞いた事がなかった。

 

ただ母が函館に嫁ぐ時に乗った青函連絡船は時化のために木の葉のように揺れて、それこそ“生きた心地がしなかった”と言う話はこれまでに何度も聞いた事があった。

 

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今、そんな母は沖を通る船を見る度に連絡船だと言う。

 

もう30年も前に連絡船は廃止になったと何度教えても大型の船が見えると連絡船だと言う。

 

津軽海峡を渡る大型の船は青函連絡船だけだと思っているのかもしれない。

 

そんな日々の中で、それならそれでもいいと思った。

 

おそらく母がこの海峡を渡る事はもう二度とないだろうと思ったからだ。

 

もしもそんな機会があったとしても、十和田湖に近い村で母を待つ者はいない。

 

母は母なりに古い記憶と共に生まれ故郷に想いを馳せているのかもしれない。

 

古い記憶の中にいる時の母の顔が一瞬、幸せそうにも見えた。

 

青森と函館を結ぶフェリーではなく、函館駅から乗って青森駅に着く青函連絡船に対する自らの妙な拘りは、知らぬ間に母から受け継いだものなのかもしれない。

 

 

朝夕は雪が降りそうなほどに凍れる季節になった。

 

すでに雪虫も飛んでいる。

 

相変わらず母は海峡を眺めては連絡船だと言う。

 

毎日のように「連絡船」と言う単語を聞いているうちに、K美は“そもそも「連絡船」とは何なのか”と考えるようになった。

 

=水域で隔てられた陸と陸とを結び、さらに旅客だけでなく貨物や車両までも運ぶ船舶=

 

連絡船には幾つかの種類があると解説されていて、青函連絡船は「海峡連絡船」だったと同時に「鉄道連絡船」でもあった。

 

そんな事も改めて知り、母親世代の人たちが本州の事を「内地」と呼ぶことを思い出した。

 

本州が内地なら北海道は外地なのか。

 

違和感に満ちた疑問を抱いた事もあったが、かつては蝦夷地と呼ばれた時代もあるのが北海道だ。

 

自分はこの島の南の端で生まれて、長旅の末に帰って来た。

 

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青森にいる昔の同僚が良く言っていた言葉を思い出した。

 

“道産子は鮭と同じで、いずれは北海道に帰って来る”。 

 

北海道民を鮭に例えるのは少々失礼だと思いながらも、適切な表現だと思った。

 

鮭は生まれた川に帰って来ると言うが帰って来ない、あるいは帰って来る事が出来なかった鮭も少なくない。

 

鮭は産卵のためだけに生まれた川へ帰る。

 

そして産卵後の鮭は“ホッチャレ”と呼ばれ、悪食な羆でさえ喰わない。

 

長い旅の末に、産卵もせずにホッチャレになったとK美は自嘲するが、それでも生まれた川に帰って来た理由を確かめながら、今日も母親と海峡を眺めているらしい。

 

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電話をかけてみたが繋がらなかった。

 

移り住んだ家の住所は分かっているので手紙を書くことにしたが、悪筆が治った訳ではない。

 

悪筆は酒に酔ったせいにしようと思っている。

 

そんな事よりも近いうちに再び始まったK美の旅路の行く先を聞いてみたいと思った。

 

もちろんK美の奢りで。

 

美味い酒を飲みながら、函館で。