憧 憬 の 轍
2017年7月14日 1985年初夏 鎌倉 紫陽花の花を見るたびに 番外編5
あの人は雨の向うで微笑んでいたように見えた。
そして小さく左手を振って車中の人となった。
別れ際に交わしたとりとめもない短い会話が今も気になっている。
あの時、僕には嘘をつかなければならない理由があった。
あの人のそれさえ見透かした笑顔が今でも僕を支配している。
最後にあの人が言った言葉は
突然短く鳴った汽笛に掻き消されて聞き取ることが出来なかった。
「今度会う時には・・・」、確かにそう言った。
その後に続く言葉を捜し続けて長い時間が過ぎた。
鎌倉の某寺にて
僕は横須賀で海を見ていた。
関東地方の地理に疎いため鎌倉が近い事に気付かずにいた。
駅前の書店で観光客が買い求めるようなガイドブックを立ち読みしてから
電車に乗った。
古い記憶を頼りに僕は歩いた。
紫陽花の季節は過ぎていたが山門に続く階段はあの日と変わっていなかった。
一段上る度に記憶が鮮明になるような気がした。
ただ雨粒に震える紫陽花の花はなく、
照りつける日差しと蝉の声に包まれて僕は上った。
白い雨傘を手にしたあの人が立っているような気がして
僕は山門の前で振り返った。
蝉の声さえ聞こえなければそれは
「静寂」という二文字がふさわしい光景だったかもしれない。
あの日、僕とあの人が、初めての鎌倉で、初めて訪れた場所が
通称「縁切り寺」と呼ばれる所だったと知ったのは
それからしばらく後のことだった。