素顔 番外編6

憧 憬 の 轍

2018611日 素顔 番外編6

 

悩みに悩み、迷いに迷い、後悔さえも覚悟して。

 

 「運命」は運ぶ命、それは努力次第でどのようにも運ぶ事が出来るのかもしれない。

 

しかし「宿命」は宿る命、生まれながらの定め。

 

それに抗う事は、おそらく出来ない。

 

 

長い間忘れていた事を突然思い出すことは誰にもある事だ。

 

S子もそうだった。

 

冬が近かった。

 

日差しは西の窓から部屋の奥にまで差し込んでいる。

 

S子にとって冬は最も憂鬱な季節だった。

 

 

夕食の準備をする前に衣類を整理したかった。

 

除湿剤と防虫剤を入れた箱を前にして軽い溜め息をついた時、

居間の電話が鳴った。それは間違い電話だったが、

その声にS子の時間は一瞬止まった。

 

そして止まったと思われた時間は信じられない速度で逆行したように思えた。

 

すでに途切れている受話器に、かつての恋人の名前を呼びそうになった。

 

f:id:approach4585:20191225140355j:plain

 

その恋人と別れてから既に16年が過ぎていた。

 

14年前に結婚し、すぐに長女が生まれた。

 

翌年に次女を授かり家庭は子供を中心に回っていたが、

そんな慌ただしさもS子は幸せだと思っていた。

 

あの電話が鳴った時も昇級してから帰りが遅くなった夫からだと思っていた。

 

受話器を握ったままかつての恋人を思い出していた時間は数秒だったのか数分だったのか。

 

彼の名前を声に出すことはなかったが、

あまりにも鮮やかに蘇る思い出。

 

懐かしさは次の瞬間に綻び始め、

そこから広がる不気味な霧のような感覚に覆われていく。

 

息苦しさを覚えてS子は大きく深呼吸して受話器を置いた。

 

 

間違い電話だった事を疑う余地はなかった。

 

結婚してから暮らしているアパートも電話番号もかつての恋人が知るはずがなかった。

 

それ以前に16年前、

突然に別れを告げて海外へ旅立った彼が帰国した話は誰からも聞いた事がなかった。

 

南米の聞いたこともない所へ行くと言った彼はもう二度と帰って来ないのだと思っていた。

 

間違い電話の声をかつての恋人の声と勘違いしているだけでなく、

それが気になって仕方ない自分が歯がゆかった。

 

家族のために身を粉にして働いている夫と、

子供たちの愛らしい笑顔を思って受話器を置いた瞬間に忘れてしまえば良かった。

 

 

電話が鳴るたびに思い出してしまうほどS子はあの間違い電話を忘れられなくなっていた。

 

小さな溜め息をつく回数も増えた。

 

古い友人がかつての恋人と仲が良かった事を思い出して久しぶりに連絡してみると、

彼は数年前に帰国して、

近くの街で暮らしていることを教えてくれた。

 

あの電話をかけたのが彼ではなかったのにそう思えて仕方がないのは何故なのか。

 

10年以上もの間、

忘れていたはずなのに未練と言うのもおかしい。

 

単にその訳を知りたいばかりでなく、

どうしても知る必要があるような気がした。

 

それを知らなければならないと思った。

 

古い友人は近々に彼と会う予定があると言った。

 

それを聞いてS子はもう一度自分も彼に会ってみようと思った。

 

そうすれば何かが分かるような気がした。

 

 

16年ぶりの再会に緊張感はなかった。

 

古い友人が急用で席を外した後の僅かな沈黙。

 

何も変わっていないような気がした。

 

左手で前髪を掻き上げる仕草も懐かしい。

 

生え際に目立つ白髪に過ぎてしまった時間を感じたが、

テーブルにはエスプレッソコーヒーとシナモンを挿したミルクティー

 

あの頃と同じ時間が流れていた。

 

そして時間と共に饒舌になっている自分に内心は驚きながらも、

いつの間にか昔の愛称で呼び合っていた。

 

一瞬、遠くを見ているような彼の眼差しがS子は嫌いだった。

 

次の瞬間に彼がどこか遠い所へ行ってしまうような気がして不安だった。

 

事実その予感は現実のものとなり彼はS子の元を去った。

 

しかし今はそんな遠い目をしている彼が愛しいとさえ思えた。

 

S子の夫がそんな目をする事はなかった。

 

次第に交錯する視線の向うに探している答えがあるような気がした。

 

目前に広がる迷路に二人で手をつないで迷い込む予感と不安。

 

突然強く降り出した雨の音と雷が重い沈黙を裂いた。

 

それさえなければ迷路の入り口で踵を返すことがS子には出来たはずだった。

 

f:id:approach4585:20191225142021j:plain

 

夏祭りの囃子が遠くに聞こえる。

 

浴衣の胸元を気にしながらS子は夜道を歩いていた。

 

上質な生地の浴衣だが下着も着けずに纏った感触はいつもと違った。

 

もっともっとゆっくりと歩こうとした。

 

6本目の街路灯を曲がった所で彼は待っている。

 

アスファルトに響く下駄の音を聞きつけた彼が待ちきれずに駆け出す足音が聞きたくて。

 

少し丸みを帯びた彼の背中に触れた時、

S子は帰り道を見失いそうになり、

彼もまた短く整えたS子の髪の毛の感触に呼び覚まされたような戸惑いを覚えた。

 

f:id:approach4585:20191225142112j:plain

 

買い物に出かけたデパートの文具売り場を通り抜けようとした時、

革張りの日記帳が目に留まった。表紙の色に揃えたボールペンとキーホルダーが付いていた。

 

贈答用の商品だったがS子は迷わず自分のために黄色の日記帳を選んだ。

 

そしてS子はその日記帳に誰にも話せない思いを綴った。

 

もう一人の自分に語りかけるように書いた。

 

日記帳に書かれた文字は自分そのものだった。

 

彼と逢った後に書いた日の日記は興奮に満ちていて、

読み返すと筆跡さえも違って見えた。

 

S子は日記帳に向き合っている時にだけ自分に正直でいられるような気がした。

 

そして自分の本性とも向き合う事になる。

 

 

コインロッカーに隠してある日記帳は4冊目になった。

 

赤裸々に綴られた文章は自分が書いたとは思えないほど素直で無防備だった。

 

そしてS子は自分の中に潜む得体の知れないものに気付き始めていた。

 

日記帳が5冊目を数える頃、

S子は正直な気持ちと罪悪感との狭間で自分を見失いかけていた。

 

f:id:approach4585:20191225142153j:plain

 

S子は次女を出産した翌年に乳癌を患い左の乳房を失った。

 

その傷跡は誰にも見られたくなかった。

 

彼はたじろぎもせずにそこに触れ、

唇さえも寄せた。

 

舌先が傷をなぞった時に覚えた背中の産毛が逆立つような感覚。

 

S子の中で何かが弾けて飛んだ。そしてS子は自分を知った。

 

何度も繰り返し、

果ててはまた求める行為に終わりはない。

 

堕ちていく自分を感じながらこの道の果てにあるものの全てを見たいと思った。

 

常識も秩序も理性もそこでは何の意味も持たないと思った。

 

全ての終わりを意味するものは「死」以外にない。

 

全てを終わらせることが出来るのは「死」だけだ。

 

互いに果てる瞬間に彼と二人だけで終わりを迎える事が出来るのなら、

本能と罪悪に満ちた魂も昇華されるのかもしれない。

 

その瞬間を望むかのように繰り返される行為が不毛なものだと二人とも気付いていながら気付かないふりをしていた。

 

そして肌の匂いや粘膜の感触を密かに持ち帰り、

それを日記に記す事によってS子の日常は均衡を保っていたのかもしれない。

 

f:id:approach4585:20191225142219j:plain

 

ある日、古い友人は仕事の都合でS子の住む街に2日間滞在する事になった。

 

「差し支えなければ会えませんか」

 

 

ひと通りの家事を済ませた午後、

子供たちが下校するまでの時間にホテルのティールームでたわいもない話をした。

 

古い友人と会ったのは16年ぶりに彼と再会した日以来だった。

 

彼とはその後、一度も逢っていないとS子は嘘をついた。

 

自分を捨てて突然南米まで行ってしまった人だから。

 

その後は連絡さえ取っていないと付け加えたが、

古い友人に何かを悟られたような気がした。

 

古い友人にだけは何もかも話しておいた方がよかったのかもしれない。

 

一瞬そう思えたがS子の姉と古い友人とは旧知の仲だ。

 

踏み出してしまった迷路は彼と二人だけで歩まなければならないものだと知った。

 

 

姉によればS子は子供の頃からいわゆる「聞き分けの良い子」だったらしい。

 

大人たちに褒められるように努めてきた。

 

どんな時にも評価は他人が、

周囲が与えるものであり、

より高い評価を得るためには努力が必要で、

その努力を当然のことと思っていた。

 

それはまるで与えられた役になりきろうとする役者のようだった。

 

奔放なまでに自分に正直でいようとする者を無責任だと思い毛嫌いしてきた。

 

在りのままの、

素のままの自分を彼と二人で迷い込んだ迷路の中で、

限られた時間と閉ざされた空間の中にS子は見つけてしまった。

 

そこに居るもう一人の自分の顔、

素のままの自分の顔を知っているのは自分以外には彼だけだと思った。

 

覆っていた霧は次第に晴れ、

確信に裏打ちされた事実に疑う余地はなかった。

 

胸の傷跡をそっと指先でなぞりながらS子が日記帳の中のもう一人の自分に話しかけた夜は数えきれない。

 

耳元に彼の息遣いが聞こえたような気がした。

 

その耳たぶには甘く噛まれた感触が蘇っていた。

 

 

 

数日前からの微熱と体調の変化を感じていたS子に医師が告げた言葉は終わりを意味するものだった。

 

何も考える事が出来なかった時間は長かったがS子は冷静だった。

 

12冊目の日記帳を買い11冊目の日記帳に残った白紙の数ページを破り捨てた。

 

そして病院のベッドで夜が明けるまでその時の自分について書き続けた。

 

時に涙で視界は霞み、手も震えた。

 

それでもS子は彼に宛ててその時の気持を書き続けた。

 

書けば書くほどに他人事のようにも思えて、

こみ上げる悲しい笑いに再び涙した。

 

「16年ぶりに再会してからの4年半が自分の人生と共にもうすぐ終ろうとしている」。

 

それだけが、ただそれだけがS子にとっての現実だった。

 

f:id:approach4585:20191225142313j:plain

 

突然連絡を断ったS子に彼は困惑した。

 

電話すらつながらなくなってしまった理由が知りたかった。

 

ただもう一度S子に会いたい。

 

声が聞きたい、触れたい、抱きたい。

 

何度も古い友人を通じてS子の姉に連絡をとろうとも考えたが、

どこからかそれを制するS子の声が彼には聞こえた。

 

そして二人が犯した純粋な罪を償う時がついに来たのだと思った。

 

果たしてそんな覚悟が自分にはあるのか。

 

繰り返えす自問自答。

 

憔悴。

 

この罪は何時、誰によって裁かれるべきものなのか。

 

S子は病院のベッドで静かに残された時間と向き合っていた。

 

毎日のように病状を伺う夫や母親に嫌悪感さえ覚え、

精神的にも不安定な日々を過ごしていた。

 

自分の本性を知ってしまった罰が下ったのだとS子は思った。

 

日記にも「天罰が下った」と書いた。

 

罪は必ずしも裁かれなければならないものなのか。

 

鏡の中のもう一人の自分が問う。

 

明るく微笑みながら問いかけるもう一人の自分はかつての何も知らない自分だった。

 

日増しに精気を失う自分とは裏腹に鏡の中の微笑みは輝きを増しているように思えた。

 

もう一度彼に逢いたい。

 

その望みは叶わないものではなかったはずだが、

S子はあえてそれを望まなかった。

 

それこそが罪であり罪悪以外の何物でもないと思った。

 

 

あるいは長い時間、あるいは僅かな時間が過ぎた。

 

 

古い友人にS子の最期を伝えたのはS子の姉だった。

 

葬儀は近親者だけで済ませて欲しいとS子は願っていたと言う。

 

ささやかな通夜の席でS子の母親は古い友人を昔の恋人と勘違いしていた。

 

いたたまれない気持ちで読経を聞く時間は長く耐え難かった。

 

 

通夜の4日前に古い友人に小包が届いていた。

 

送り主の住所はなくS子の名前だけが書かれていた。

 

後に分かった事だが宛名の筆跡はS子のものではなく担当の看護士のものだった。

 

小包に添えられていた便箋には乱れた文字で懺悔の言葉が長く綴られていた。

 

彼と再会してからの事やこの手紙を書くまでの経緯も事細かに書かれていた。

 

その手紙を読むまで古い友人は二人の関係を疑った事はなかった。

 

小包の中にはもうひとつの小包があり、

それを彼に渡して欲しいと書かれていた。

 

手紙を読み終えて古い友人は迷った。

 

すぐにでも彼に一部始終を話し小包を渡すべきか、

それともしばらくしてから渡すべきか。

 

 

 

S子の四十九日が過ぎた頃、

古い友人は彼に会ってS子の死を隠していたことを詫びた。

 

託された小包を置いて立ち去ろうとする古い友人を彼は制し、

そこで包みを解いた。

 

 

12冊目の日記帳の白い表紙には飾り気もなく、

真新しさだけが見て取れた。

 

彼にとっては見慣れた丸みを帯びた筆跡。

 

最後のページに書かれていた言葉に絶句した。

 

『感謝します。貴方に感謝しています。だからこの日記を貴方の手で処分して欲しい。

誰にも知られる事なく処分してください。ただ、ただ貴方に感謝』

 

繋いでいたはずの手は生々しいまでの感触を残して振りほどかれた。

 

二人で迷い込んだはずの迷路の中でひとり佇んでいたのは彼だけだった。

 

f:id:approach4585:20191225142430j:plain

 

S子と彼が誰の目も憚らずに恋人同士だった頃、

S子が好きだった海岸で海に落ちる夕日を眺めていた。

 

日没直後に海面が紫色に見える瞬間がS子は好きだった。

 

同じ場所で小さな火をおこし、

拾い集めた流木をくべた。

 

辺りが闇に包まれる頃、

その灯りでS子が残した日記帳を読み返した。

 

あの日S子と逢わなければ、

昔の事と聞き入れなければ、

こんな夜を迎えることはなかったのかもしれない。

 

そんな思いと裏腹に赤裸々に綴られた文章に懺悔の思いが募った。

 

どこまでも正直に自分と向き合おうとしたS子に対し、

どこかで逃げ道を探していた自分を恥じながらページを捲った。

 

S子の体温や粘膜の感触が生々しく蘇る。

 

そしてその全てはもう二度と戻らない。

 

それがどれだけ受け容れ難い事だとしても、

認めなければならない事実だった。

 

読み終えたページは破り取って火にくべた。

 

12冊目の日記を読み終えて表紙も火にくべた。

 

小さな火が燃え続けている間はS子が側にいるように思えた。

 

やがて火は小さくなり、

か細い煙に変わり、

力なく足下を漂って消えた。

 

涙が止まらなかった。

 

声を出して泣いた。

 

ひと時強く吹いた風が日記帳の灰を暗い海に運んで行く。

 

燃え残った小さな金具が冷めるのを待って彼はそれをポケットに入れた。

 

夜が白みかけた浜辺には、

彼の気持ちと裏腹に波の音だけが静かに響いていた。

 

 

彼の誘いで古い友人は居酒屋にいた。

 

通夜の席で勘違いしていたS子の母に託された形見、

黄色い革の飾りが付いたキーホルダーを何も言わずにテーブルに置いた。

 

それが1冊目の日記帳に付いていた物だと分かっていながら彼は手を伸ばそうとしなかった。

 

彼はポケットの中で握りしめた煤けた金具にS子の体温を思い出していた。

 

あのキーホルダーは今も古い友人の手元にある。

 

その日以来、

彼は古い友人と何度か会っているがS子の話をした事はない。

 

二人にしか理解し得ない4年半は終わった。

 

その4年半がS子にとって、

あるいは彼にとってどんな時間だったのかは二人にしか分からない。

 

古い友人はそれを甘受するしかなかった。

 

およそ半年後、彼は再び南米に旅立ったまま連絡もない。

 

 

古い友人は夜桜を見ていた。

 

咲いた桜の花は散り始めが最も美しい。

 

はらはらと音も無く散る花びらを愛出るのも花見の楽しみのひとつだ。

 

水面を染める花筏は何処へ流れて行くのだろう。

 

桜の花は春が来て自然に咲くのではなく、

咲く衝動を抑えきれずに咲いてしまうのだと思った。

 

そして僅かな時間宙を舞う。

 

花はその瞬間のためだけに咲くのかもしれないと思った。