下宿屋の裸電球 番外編20

憧 憬 の 轍

 

 

202212月15日 下宿屋の裸電球 番外編20

      

 

「下宿屋」 

1975年(昭和50年) 

阿久悠作詞 森田公一作曲

 

窓に腰かけあの人は 

暮れてゆく空見つめつつ 

白い横顔くもらせて 

今日は別れに来たと言う

だらだら坂のてっぺんの 

あの下宿屋のおもいでは 

泣いて帰ったあの人と

後に残った白い花 白い花

 

 

昭和53年(1978年)の春、私は札幌駅から地下鉄に乗って当時は東西線の終着駅だった琴似駅に降りた。

 

そして歩く事約15分、そこに古びた下宿屋があった。

 

隣に新築された建物の陰になっていたために一日中薄暗い西向きの四畳半には、裸電球がひとつだけぶら下がっていた。

 

 

1973年(昭和48年)のヒット曲、神田川には「三畳一間の小さな下宿」で若い男と女が一緒に暮らしている光景が切なく歌われていた。

 

ある意味で叙情的で幻想的な歌詞とは裏腹に時代は大きく変わろうとしていたが、その下宿屋は親元を離れ、仕送りで生活する学生には相応しいと思った。

 

 

古い駅舎は既に無い ふたつ隣は「愛国駅」

 

 

1980年代を迎えた頃、私は目まぐるしく変わる日常の中で思い出していた事があった。

 

それは高校2年生の夏に訪れた札幌の街、特に北海道大学の周辺で見た立て看板の事だった。

 

簡単に言えば学生運動の活動家たちが手書きで作ったものだったが、それがどこにも見当たらなかった。

 

1960年代から社会現象となっていた学生運動の影は既にどこにも見当たらなかった。

 

 

私は学生運動に幻想的な憧れを抱いていた。

 

もちろん過激派と言われて指名手配されるような事を起こす度胸はなかったとしても、体制に反旗を翻してデモ行進に加わるくらいは考えていた。

 

しかし若者たちの多くは週末ごとに流行りの服を着て夜の街に繰り出し、またある者たちはクルマやバイクで傍若無人に走り回ったが、そこにはかつての学生運動に垣間見た思想も理想も無かった。

 

 

 

数年後のある日、私は恩師との雑談の中で「もう10年、いや15年早く生まれたかった」と言った事があった。

 

そうすれば日本中が学生運動の狂乱の中にあった時代に大学生でいられたと言う意味だった。

 

冗談半分の会話だったが普段は温厚で滅多にきつい言葉を口にしない恩師が私の話を遮り、「バカな事を言ってはならん」と大きな声を上げた。

 

一瞬の静寂と勢いで倒してしまった一升瓶から酒が溢れ出る音、そしてあの真剣な眼差しを私は忘れていない。

 

 

恩師はまさに学生運動の盛んな時期を京都大学で過ごし、その後は博士課程にまで進まれた人だった。

 

今でも京都大学は過激派の拠点としてマークされているらしい。

 

かつて過ごした時代に見た学生運動の光も影も知っていたからこそ反射的に口を突いた言葉だったのだろう。

 

その恩師も既に鬼籍の人となってしまった。

 

今さら敵わない事だが、彼の目には私たちの世代がどのように見えていたのかを、もう一度訊いておきたかった。